武蔵野市立千川小学校アートホール、高田芳樹氏カラーチャート空間体表現  APR 2010
〜 コメントの試み 〜

造形作家:上 杉 英 ー Suguru Uesugi

は じ め に
Color Chart_Senkawa千川小アートホールで高田芳樹氏の作品を私の目に映してみた時の瞬間の印象として「何!このアートホールのたたずまいは?」
そのことで戸惑っている私の心の様子を先ず見てしまった私であったが!とは言っても目の前では実際に作品展開は既に為されていること事実である以上、そこから見つめて行く以外になくその事実性に向かい合う事で私の心を持ち直しさせたのであるが。

このアートホールの空間視線は日常が求める安定感からは相当に外み出していると思える、ホールとは名ばかりの様な暑苦しさが凝固した空間体。そこへ介入させて行く高田芳樹氏はカラーチャート表現を仕向けて行く中でそれまであまり味わう事のなかった新たな景観空間にアクテイブな気持ちと同時に厳しく抑制する気持ちを抱えたことではないかと察したのだが。

序 論
このコメントを示して行く上で高田芳樹氏の表現に対して少しでもその仕組みを理解したいと言う思いが生じ彼のホームぺージを開きそこに掲載されている2005年頃から以後の展開内容を確かめ、このコメントに向け多少なりとも、納得を持てるエレメント補強を行うことが出来るのではないかと、その事を踏まえて拙いなりにコメント展開を試みたいと思う。

Saijiki私が高田芳樹氏の作品に関心を持ち興味を抱く様になった理由には彼が展開して行く造形表現に対する軽快なステップ感であり、その自由性でありそのことによるビジュアルな変移性であり極めて色濃い楽天性を秘めている所ではないかと思うからである。
初めて彼の作品を目にした時の展開されていた内容はパッケージングの作品であった。見た目に構造とテクスチュアの緩さ加減に言葉で言い表し難い、高田芳樹氏の心の柔らかさを覚え、作品サイズの掌感は意味する内容とは裏腹に何とも言えぬ温もり感が溶け込んで来る様な印象を持つ事が出来、それは愉快性のある感性ではと覚えたのである。そこから私の追いかけがが始まる事になったのだが。

Color Chart_Senkawaさて改めて千川小アートホールへ目を向けて設置された空間造形の様相から辿ってみることにする。色彩のチップでしつらえた帯状とも見える様相を張り留めた皮膜的と言える様な薄い布地(細目のメッシュ地)同士を不規則に向かい合わせることで、皮膜的布地同士は不均一な照射を行い合い、帯状に張り留められた彩色チップは不規則な響鳴を発し続けている様に見え、それに合わせてチップの色それぞれが微かなざわめきを起こし空間体へ浮遊し漂いはじめ、派生し合う色同士が出会い磁波を起こし、空間体を浮遊し、揺曳しながら飽和して行く中で床面スペース中央より少々外れて設置させている百葉箱へ採集されて行く様に見えるのだが?見る側はその採集された様子を百葉箱内の計測データをもとに集約された内容を通して見る事が出来、改めて空間を通して場と物との関係が齎すこの様な空間体の新たな表情を経験するのだろう。「空気遠近(日常用語としては使用しないが)を通して色の浮遊性と言う構造実態を知る事が出来る」と言う事を!
この作品展開の仕組みを構成するイメージの根底には、事象が引き起こす「気配」と言う空間イメージが大きく横たわっている場所との「出会い」に委ねた末に見えてくる物と、身体への色の通過性による印象の視覚化がその可能性と動機(出会いと関わり)に対する証明とを重ね合わせているのではと思う。
この千川小アートホールの作品エレメントが示しているカラーチップの帯状を高田芳樹氏は「カラーチャート」として「キーワード」化している。(何故、色片をこのサイズに?又薄い布地のサイズに関しても判断の基準は(按配は)何をもってして?普段に見られるカラーチャートイメージサイズが潜在していたからだろうか?)

Color Chart_Parazaこの「カラーチャート」を制作する動機の初めは既に2005年ジョグジャカルタ〜パラッツア(フランス)にかけてアクテイブな展開によって確保している。そして移動性への試みは多摩市桜ヶ丘ホールで展開して来てもいる(この多摩市桜ヶ丘での移動性表現はその会場で私は直接見る事が出来ている。)千川小アートホールでの設置展開を試みたことは「カラーチャート」と言う様相へ見る側に向けた映り込み性を新たに求め直すこと、色彩の空気感に対して身体性を通して内的なリアリテイ化へ重ねて行こうとする提示者として提示者に課した責務、それ以前に初めての場所へ試みたいと言う欲求であった思う。
自然な空間環境が見せる出会いの様相を他者と共有出来ることの喜びであり、楽しみであり、一つの確認であり、その事は同時に己の生命的時間姓を重ね合わせ心の中の愉快性を味わい、その事の自分を視つめたいと促されるからではないかと思う。
その様に見て行くならば千川小アートホールで試みようと思いたった場所への動機に於いて、既にその時点でアートホールのコーナー二壁面が見せる視覚的なギャップ感はアートホール空間体から受け取れたイメージ展開にとって二次的な差異姓として扱うことが出来たのではないかと思う。単なる視覚的機能性からは免れないだけに(見る側にしても視覚には映り込んでくる二壁面だけに)表現媒体のエレメントレベルには均等な比重として取り込むことの工夫は敢えて無理強いをしなかったのではないか!それ故に薄いメッシュ地の皮膜体様を二面の壁面に沿わせる様に抱かせる様にはせず、空間体に浮遊させ半透明性の要素を自然な効果性として働かさせたのではと思う。(ジョグジャカルタでの展開に於いてこの浮遊的表情を提示していたが)
その上でジョグジャカルタの空間環境が持ち合わせていた流動的空気感の自然性とは全くの異質感を持ち閉鎖的であり或る意味ではジャンキーな粗さと猥雑な固さを持つ人工的空気感を見せるホール空間だからこそ。薄い皮膜体の三面と円筒状風に設えた柱状物との空間的構成が皮膜同士内で生じてくる響鳴環境を保証する設定のイメージを起こさせ新たなカラーチャートテクスチュアーに出会いのリアリテイを見る側の心の中に映り込ませて行く様に仕向けたのであろう!

Color Chart提示者としての高田芳樹氏は見る側の映り込んで行く心の中の様子を自然な心のパースペクテイブとして尊重し、ジョグジャカルタからパラッツアへと展開させて来た切り口を曖昧なレプリカ化に向いてしまわない様、慎重な配慮で百葉箱を導入しデータ採集の構造と構成に委ね、その様にすることで何の保障もないままに見る側の心が引き起こし兼ねない択一的判断の安易さを指摘し可能な範囲で持って提示者と見る側とが出会いを通して互いに共振し合えるテクストを優しく示しているように思えるのである。それと同時に又事象の確実性と不確実性の隙間を埋めて行く中で過ぎ去る時間性との関係を提示し、見る側にも同様な視点に立Color Chartつように静かに突きつけて来る。「通底」を媒体に出会いを求め会う為に!
提示者高田芳樹氏は時間を伴う事象の質と量を仕掛けるにあたって空間の様相を百葉箱を媒体にして採取する事により常に事象の全体を視野に据えて物の仕組みの時間を引き起こす工夫を示して行く。
見る側は提示者高田芳樹氏が引き起こす時間の位相性を受け取り、その事が心の中で設けていく視野へのイメージベースにエレメントの様な位置を(結果として)引き受けて行き見る側としての内側に関心と興味を覚え、同時に提示者高田芳樹氏との間に、一種の親和力を生み出して行きその事を高田芳樹氏は心に秘める思いで、暗に期待しているのではないか?(この仕組みは、記録とは採取を伴う行為であり結果であり記憶への準備であり「痕跡」への内発的初動行為へとリンクされ時間的積量を通して螺旋的円環性に向かって行く様になる。それは当然なことであって高田芳樹氏の主張して行く表現の通底には、主軸は一つであると。改めて理解するのである。)

改めてここで確認しておきたい。高田芳樹氏が千川小アートホールと言う空間場所へカラーチャートを設置しようと判断決定した基準のイメージは移動性の意図を最前提として、見る側の率直な内発性を促した上での表出であり空間体としての量感性がその動機イメージを持てる事によって。作品展開の可能性を測ることが出来たのであろう。
Color Chart_Senkawa見る側にとって、新たに意図されたこの空間環境と出会った視点に立って見ると規模の大小に関わらず人と人が交叉し合う場所(小学校と言う教育環境の内包された場所)としてこの千川小アートホールは正しく「出会い」の意義を十分に条件が満たされているここであってそれ故に百葉箱を共時の概念のもとに位置付けさせた提示者高田芳樹氏と言う表現者としての姿勢を共感し理解して行くのではないかと思う。
単なる記録としてのモニュメンタル性ではなく単なるサンプリング性として括り限定させようとはしない故に他者が(見る側)他者性としてのパーソナル性が明確に保障された位置で表出内容としての百葉箱その媒体性に触れ合えるからであり幅のあるそのウイング感と併せて軽快なステップ感を伴わせた明快な表現姿勢、それを特色として如何に味わうかを提示者高田芳樹氏から問われてもいるのだろうと思う。

Color Chart_Senkawaこの序論への試みに関して高田芳樹氏が造形展開して行く中で設定しているキーワードの多岐性を私は十分に尊重しながら言葉を見出す目安にしたことを付け加えておきたい。(相当に恣意的で粗略な引用でしかないが。)
千川アートホールで展開されたカラーチャート空間体表現への感想としてシンプルなコメントをと思いつつどこかで高田芳樹氏の造形に関わって行く思考性と同時に人間としての心の自然性、に引きつけられているだけに生意気にも少々文字数を増やしてしまった。
その上でこの様にも思っているのだが、造形する者同士に於いても作品を通した論旨交流の可能性を少しでも起こせるならと思っているからであろうと、自戒の気持ちを込めながらも。

*1: 「追憶」2007制作(布、コンテ、箱)
出逢いは、意図しないところから生まれる。その時もそうだった。場所は、ルーマニアの北の端の小さな都市の古い城。かつては漆喰に覆われてであろうその壁は、粗悪で大きさもまちまちのレンガがむき出しになっていた。私は、クレヨンで綿布にフロタージュした。ささやかな記録は、私の移動した痕跡と、時間を包み込み、柔らかな弁当箱の形になった。